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薄闇とレースのカーテン

JUGEMテーマ:つぶやき。

 

トラウマや心の傷って、掘り返すと案外とるに

足らないことが原因だったりする、というお話。

 

三島由紀夫には出生時の記憶があったそうだが、

私のもっとも古い記憶は2歳の時のある日。

なぜ2歳と断定できるかというと、記憶の中の

部屋の様子に見覚えがないから。3歳になる前

に越してきた家は細部まで記憶の画像に残って

いる。ということは、あの知らない窓辺にいた

のは2歳の私と父と母だ。

 

レースのカーテンが風に揺れていた。

寒くも暑くもない季節だった気がする。

父とは母二人して笑顔で、私に尋ねた。

「パパとお母さんとどっちが好き?」

新米父母にありがちなたわむれ。

 

しかし訊かれた私は真剣に悩んだ。

パパなのかお母さん(母は私にママと呼ぶことを

許さなかった)なのか。お母さんは好きだけど、

怒ると怖い。パパは怒らない、いつも優しい。

ということは、よりパパの方が好きということに

なる。だったら「パパ」と答えるか。でも「パパ」

と言ったらお母さんは悲しがって泣いてしまうので

はないか。お母さんは、女の人だから。

 

どうもすでに母はこの頃から私を厳しく叱り付ける

ことがあったこと、「女の人=男の人より弱い」と

いう偏見めいた思い込みがあったこと、に少し引く

が、2歳児は本当にそう思ったんだから仕方ない。

 

そこで私が答えたのは

「お母さん」

だった。

 

「やっぱりそうかー」みたいなことを言って父も

母も笑っていた気がするけれど、父の笑顔が少し

寂しそうだった、ような気がした。

 

この時に私に三つの傷ができた。

「嘘をついた」

「がっかりさせた」

「間違った選択をした」

 

当時の私が出した結論は「叱らないパパの方が

好き」だったのに「お母さん」だと嘘をついて

しまった。

 

そのことで父を(おそらく)がっかりさせて

しまった。がっかりしている顔を見た(ような

気がした)。

 

思ったとおりに「パパ」と答えればよかった。

なんならもう少し賢ければ「選べない、どっちも

大好き」とでも言えたのに。選択を間違えた。

 

うそつきで、「がっかり」することが多くて、

「がっかり」させることに罪悪感を覚える、

選択することが苦手な人間、一丁上がりだ。

私はまったく、そのような人物に育った。

 

両親は何も悪いことをしていない。

私もまた両親を別に傷つけてない。

にもかかわらず、がっつりと人格に影響する

ほどの傷になっている。

 

だから気をつけよう、お父さん、お母さん、

「どっちが好き」とかむやみに訊かないで!

とかいう話ではもちろんない。

 

いつも自分の行く手を阻む心の闇のような

もの、生きづらさの原因になっているもの、

というのがよくよくさぐってみると実は、

なんてことない拍子にできた傷が元だった

りする、ということが言いたかっただけです。

 

人の心はかくもやわらかく傷つきやすく、

傷は複雑に後々まで影響を残す。人を傷つけ

ない自分が傷つかない、どっちも無理なこと

なことだから、自分の傷を自分でさぐり、

触れて気づくしかないのですよね。

夏生(なつを) * ひとりごと * 17:59 * comments(0) * trackbacks(0)

成仏させられない記事について

JUGEMテーマ:日本のTVドラマ

 

久々に開いた管理ページには「非公開」として

放り投げられてある記事が50件近くありました。

そのうち、まあこれはいまさらどうでもいい話

すぎるね、とか、このお店は閉店してるね、とか、

とか、まったく何が言いのかわからない、とか、

単純に読んでて不愉快、といった日の目を見る

べきではないものをさくさく削除してゆき、今更

ではあるけどまあ記事として読めないこともない、

というのだけ公開しようかなと。

 

もんのすごい長さでもんのすごい熱量で持って

書かれていたものがありちょっと読んで気分が

悪くなり即効削除しました。何が書かれていた

かというと「まれ」という朝ドラについての、

感想、批評、と言えたものじゃない大悪口大会。

 

よくもまあここまで憎々しげに、ひとつの作品

についてあしざまに言えたものだとゾッとする。

と同時にちょっと感心する。

しかし公開しなくてよかった。

 

朝ドラは物心ついた時からだいたい見ている

コンテンツなので「フリーク」と言えると

思います。これは長期間毎日おつきあいする

ものなので、たまにある徹底的に相性が合わ

ないドラマに当たると結構ダメージでかい。

途中で見るのをやめられるくらいの合わなさ

ならまだ良くて、合わなさ過ぎて逆に興味を

持ち結末を見届けずにいられない、というの

が一番始末が悪いです。最後まで見て印象が

良くなることはまずなく、途中でやめなかった

ことを心底後悔した上に出演してた俳優を苦手

になることも多いので。

 

最近では「まれ」がその一番手でした。

2015年上半期。2012年下半期の「純と愛」も

ヘビーでしたが、あれは作家による「視聴者の

神経を逆撫でしてやろう」という作為がプンプン

で、特に後半の展開とかムチャクチャだったし、

そこまでやられるとかえって後に何も残らない

というか、もはや「珍作」という思い出。

夏菜さんには幸福になってもらいたいと心から

思います。

 

しかし「まれ」はもっと根深いのです。

好きだった土屋さんが苦手になるくらい、

どころかあの作品に出ていた俳優の八割くらい

をしばらく見るのも嫌だと思ったくらいに、

アレルギーは酷かった。何がどうしてなぜそこ

までダメだったのかは、自分自身のプロフィール

や内面に関わってくることで、「駄作だったから」

みたいな単純な理由ではないです。

 

私がなぜこの作品を嫌いだったかについて

深堀りすれば、自分の思考の構造の一端が

見えてくるので、大悪口大会を通してどうも

それをやりたかったみたいなのですが、しかし

読み手の立場からしてみたら不快なことこの上

ない。「なぜ好きか」と同様「なぜ嫌いか」も

掘り下げると興味深いものが出てくるのは確か

だけど、これは自分ひとりでやるべきことで、

公開する記事の上でやることじゃないよなあと

深く反省。

 

今後、好きなものについて書いても嫌いなもの

をじっとみつめるような記事は書かないように

しようと思います。

 

 

「まれ」好きだった方が偶然この記事に目を

止められて気を悪くされていたらごめんなさい。

でも「まれ」自体が悪いんじゃありません。

私の中に何らかの認められない「まれ」が

あったんだと思います。

夏生(なつを) * ひとりごと * 15:30 * comments(2) * trackbacks(0)

悲しい

JUGEMテーマ:つぶやき。
 
 24時間テレビ明け月曜日のあさイチで「しつけ」に
 ついて取り上げていて短縮ヴァージョンながら結構
 面白かったので通常ヴァージョンでまたやって欲しい。
 
 この「女性リアル」の特集コーナーは、わりと当たり
 外れがあって、その時の構成にもよるけどコメント
 するゲストの顔ぶれにも左右されるところがあり、
 この時のメンバー(松本明子さん、山口もえさん、
 MEGUMIさん)には感情的になったり極論を言い
 過ぎたりする人がいなかったので見やすかった。

 という話とは別に、特集のVTRの中で、泣いている
 赤ちゃん、よちよち歩きの幼児、が登場するのを見
 ていて、ふいに悲しい気持ちに襲われた。

 例の、中学生二人が殺された事件。
 まだ幼い被害者が赤ん坊だったのはほんの10年前
 のことなのだ、と思うのと同時に、同じく、殺した犯人
 にもまたこういう頃があったという紛れもない事実に
 落ち込む。

 ふぎゃふぎゃと頼りなく泣き、首も座っておらず、
 小さな丸い手をして、甘い香りのする赤ちゃん、
 だった頃がない人間はいない。

 奪われる生命以上に、奪う生命に思いを馳せて
 しまう。自分に子がいたとして、被害者の側になる
 のはもちろん恐ろしく悲しいが、加害者の側になる
 のはもっと恐ろしい。どうしたら被害者にならないで
 すむか、ということを考えないといけないのは無論、
 そうなのだが、どうしたら加害者を育てずに済むの
 か、ということが先に頭に浮かび迷路に迷い込む。

 性癖は、親や本人に責任があるんだろうか。
 それは多分、ないと思う。
 「こういう性癖を持って生まれよう」と思った子も
 「こういう性癖の子に育てよう」と思って育てた親
 も当然いない。だったら何が。特に性癖なんて、
 生まれた時点ではわからない。目に見えない。
 そういう性癖を持っている人が全て犯罪を犯すわけ
 ではないが、それを欲望として持ってしまった以上、
 生涯、それをストレスとして抱え込まないといけない
 のだろうか。そこを救える方法はないのか。自分は
 たまたま、「他人と多少違うかもしれなくても特に害
 のない性癖の持ち主」、だったから良かったな、とは
 思えない。悲しい。
夏生(なつを) * ひとりごと * 19:59 * comments(6) * trackbacks(0)

自分ごと

JUGEMテーマ:つぶやき。

 「天皇の料理番」が終わり2週間近く経ちました。
 来週はV6のベストアルバムが出るのでそれに
 向けての雑誌やテレビ等の露出が増えそうです
 が、今現在はちょっと気持ちが凪いでいて(萎え
 てるわけではない)、ちょっとお疲れ休みというか
 クールダウン期というか、情報に一目散に飛びつ
 いて、燃えたり萌えたりする気分ではないみたい。

 私が何かに夢中になっていない時、そういう気分
 が薄まっている時、一番関心があるのは、自分の
 こと、自分自身のことです。ベクトルは、外側には
 そんなに向いてない、常に内側。だいたい何かに
 夢中になっている時でも(それが恋愛であろうと、
 オタク事であろうと)その対象を通して、それを好き
 であるという現象を通して、自分を見ているのです。
 自分だけを見ているのです。私が本当に愛している
 のは自分、自分の内部だけ。なぜならそれが唯一、
 知っている世界だからです。他人の内側の世界の
 ことはわからない、知り得ない、感知する能力が私
 にはない。未知なるものに興味はあっても深くは愛
 せないと思う。私は、私の見たもの聞いたもの私が
 美しいと感じるもの私の痛み私の喜びと悲しみ私の
 記憶私の心と身体に触れてくるものの感触を愛する。


  綿菓子・ソフトクリーム・さくらんぼ

 今の自分を知っている人ならおそらく「嘘だろう」と
 言うと思うが、子どもの頃に大変食の細い時期が
 あった。躾に厳しく「何でも残さず食べなさい」な
 家庭だったので怒られたくなくてかなり無理して
 一生懸命食べていた(親の目を盗んでこっそり
 捨てたりもしていた)から、おそらく母親も、私に
 食べられない時期があったことを認識してない
 と思う。言っても信じないだろう。だいたいミルク
 飲みも良かったらしいし、その時期以外はずっと
 「とりあえず何でもよく食べる人」としての人生を
 歩んでいるので。ただ、私の中で、あの頃の、食
 への恐れ、食べる辛さ、口に入れたものを吐き出
 したくなる衝動、は記憶として強く残っている。

 好き嫌いが多い、というのとも違っていて、とにかく
 「がっつりと重く、栄養のあるもの」が苦手だった。
 米、牛乳、肉類、等。米よりも、軽いパンとか形状
 的に流し込み安い麺類の方が食べやすかったし、
 肉よりも、魚の方が重くなくてさっぱりしているの
 で食べやすかった。牛乳は、コップ半分くらいなら
 何とか飲めるが、幼稚園や小学校の給食で出る
 瓶一本とかパック1個とか、ありえない量だった。

 朝食の食パンのトーストも、本当言うと一枚は多
 くて、なのでジャムを塗って半分に折りたたんで
 サンドイッチのようにして食べていた。その方が
 見た目的に、量が少なく感じられたので。

 当時、私にとって、食べることと眠ることは、恐怖
 だった。なぜ一日に三度も食べ、二度も寝ないと
 (家にいる時はお昼寝が義務付けられていた為)
 いけないのかわからなかった。ガツガツ食べられ
 る人や、3秒で眠れるのび太が羨ましかった。

 その頃(4歳〜7歳くらい)の写真を見ると手足は
 ガリガリに細くお腹はぼっこりな体型で、体力もなく
 しょっちゅう風邪を引いたりしていたので栄養失調
 気味だったのかも。

 そのようだった幼少期の私が好きだった食べ物が
 綿菓子とソフトクリームとさくらんぼの、の三つ。
 (ただしソフトクリームはバニラに限る)
 口に入れると夢のように儚く消えてしまう綿菓子。
 不思議な形状で白く冷たく柔らかく食べても食べな
 くてもすぐに溶けてしまうソフトクリーム。
 世にも可愛らしい形をして真っ赤でも真っ黄色でも
 ない微妙な美しい色合いのつぷんとした歯ごたえ
 にほのかな甘酸っぱさのさくらんぼ。

 どれも、私の中にズケズケと入ってきたりしない、
 長いこと居座ったり、後に残ったりしない、控え目
 でイケズな、全く腹持ちしないささやかな食べ物。
 その上、綿菓子は祭りの時しか、ソフトクリームは
 お出かけした時しか、さくらんぼは6月前後の短い
 期間にしか、出会えないものなのだ。

 どうやって、何がきっかけでその時期を抜けたのか
 さっぱり覚えてないのだが、いつのまにか、人一倍
 何でも良く食べる子になり、大人になりました(けど
 眠ることは今でも苦手、未だにのび太羨ましい)。

 ソフトクリームは現在も若干マニアック気味に好き
 で、行動範囲内にあるソフトクリーム(ただしバニラ)
 はだいたい試しています。

 さくらんぼは、いまだにありとあらゆる飲食物で一番
 好きなものです(酒よりもさくらんぼが好き)。

 理想の食物。

150707_104645.jpg

 ちなみに綿菓子の方はある時「所詮はザラメ」という
 ことに気づいてしまって、熱が冷めた。大人にはなり
 たくないものである。


 飽きっぽくない

 そのように執念深く、さくらんぼやソフトクリームを愛して
 いる私が、「飽きっぽい」なんてはずはないのです。

 だがしかし、周りからは「飽きっぽい」と見られている節が
 あるのでここで今一度、自己弁護しておきたい。

 一途に、ただ一人の人を追いかけているという人が割と
 周りに多い中、私は色々な人を好きになってきました。
 長年、好きでい続けている人もいるにはいるけど少なく、
 だいたい一時的に激しく夢中になり、ある時期を境に、
 ぱったりというパターンが多いです。

 それ見ろ飽きっぽいじゃないか、と言われるかもしれない。
 でも、違うんです。私は愛してるよ今でも、好きになった頃
 のその時点での姿形や雰囲気を。一生愛するし飽きること
 は絶対にない。

 薬師丸ひろ子は、今の演技派のかわいい中年女優では
 なく、ガラスみたいに透明で壊れそうだった十代の頃の
 彼女に憧れていたのです。女神に見えていました。

 キンキキッズはお互いを見て恥ずかしそうに笑ったり、
 テレビ番組でなんでもないことのように手を繋いだり、
 歌うのも踊るのも力いっぱい一生懸命だった、少年の
 頃の彼らを愛していたのです。

 西川貴教は、プロデューサーの浅倉大介のことだけを
 見て、ひたすら彼に愛されたがり、自分の曲として作ら
 れたものを証のようにして愛し、魂をこめて歌い、時に
 は想いをいれすぎて涙を流し、ライヴでは細い身体で
 体力を使い果たしてぶっ倒れる、そういう尊い生き物
 であった時代を愛していたのです。

 映画「ねらわれた学園」を観れば、初めてひろ子ちゃん
 を見た衝撃とときめきがよみがえってワクワクするし、
 キンキの武道館ファーストコンサートを見ればやっぱり
 この子たちがジャニーズ最高傑作と思うし、TMRの
 アンティノスレコード&ダーウィン所属時代のライヴ映像
 を観れば何度だって号泣できるのです。

 私は飽きてない。断じて飽きてない。ただ対象が変化した
 だけだ、成長という形で。それはもちろん悪いことではく、
 生きているものとして当たり前のこと。私だって、薬師丸
 ひろ子を好きだった頃から、キンキキッズを好きだった頃
 から、西川を好きだった頃から、確実に変化してる(それ
 を成長といえるかどうかは自信が持てないけど)。

 成長に伴う変化が悪いことだと言ってるわけではない
 し、変化することそれ自体を受け入れられないわけで
 はない。どう変化したか、何に変化したか、それを好む
 か好まないか、というその一点だと思う。

 例えばおたまじゃくしがカエルになる、青虫が蝶になる。
 私はおたまじゃくしは嫌いじゃないし、カエルもまた嫌い
 じゃない。そして青虫は、キャベツについていた小さいの
 を虫かごで大事に飼ったことがあるくらい、わりと好き。
 (というのも広島の母方の祖母が養蚕をしていたので
  あの手の幼虫には慣れていたというのが多分大きい)
 (でもアゲハチョウの幼虫は変な模様があるので苦手)
 だけど蝶々はこの世に生きる生物の中で一番大嫌い。
 ゴキブリより嫌い。

 青虫や蚕に「いつまでもそのままの姿でいてね」と言って
 も無理なのだ。死なない限りさなぎになり蝶または蛾に
 なる。でも青虫かわいい、蚕かわいい、と思って愛でて
 いたら、全然違う姿、蛾とか蝶になられて、それでも引き
 続き愛せよと言われても「全然違うじゃん…」としか、返す
 言葉がない。全然違う。全然違う。全然違う。

 若い頃の薬師丸ひろ子、キンキ、西川が青虫で、現在
 の姿が、蝶や蛾だ、とまで言ってるわけではないが、
 それに近い違和感と戸惑いを感じているのは事実です。

 だから「飽きっぽい」などと言われるのは甚だ心外。
 違和感を我慢できない、だけなのです。
 根本的に、生きているものを愛せないのだろうと言われ
 たことがあります。生きとし生けるものはどんなものでも
 変化するから。その通りかもしれない。否定はできない。
 私は変化に弱い。

 なのでこれからも、どんなに好きな対象でも「変態した!」
 と感じたら、そして、それを受け入れがたいと感じたら、
 バッサバッサと切り捨てると思います。なので私の愛情
 なんて信じないでほしい。私の愛は永遠なんかではあり
 ません。ただ、飽きっぽいわけではない。記憶の中の、
 愛していた時の姿を、永遠に愛するだけです。
夏生(なつを) * ひとりごと * 22:18 * comments(4) * trackbacks(0)

物語について

JUGEMテーマ:つぶやき。

 自分にとって、「物語」とは何か、ということについて
 語ります。たとえ話を用いながらの、抽象的な話に
 なるかと思うので、苦手な方はスルーしてください。
 (一応、この後に書く予定の「天皇の料理番」の感想
  の前振りのようなものでもあったりはします)

 以前にも少し書きかけたような記憶がありますが、
 イメージとしては、「ガラスのような、透明、もしくは、
 半透明の壁に覆われた球体の世界」であり、これは
 小説であっても漫画であってもアニメであっても映画
 でもドラマでも、同じです。物語であるならば。

 この球体には目に見えない入り口がついていて、
 自分ではそれを「ゲート」と呼んでいます。このゲート
 が開けば、球体の世界の中、物語の中に入れます。
 開かなくても、壁は透明、もしくは半透明なので、外側
 から、ちょうど水槽の魚が泳ぐ様を眺めるようにして、
 楽しむことはできます。

 球体の中に入っても、入らなくても、物語を楽しむこと、
 それ自体は可能なのですが、私は、外側から見ている
 よりも、中に入って楽しむことを好みます。

 「こういう展開ね〜あるある」「作り手は、これこれこう
 いうことがしたいのかな」「「この演出はオシャレだね」
 みたいなのは物語を外側から見ている時の感想です。
 没入しているわけではないので、作品を俯瞰した構図
 とか作者の意図とか些末な部分の長所短所とかを、
 客観的に見て取ることができる。

 「登場人物の言動や行動に凹んだ」「殺してやりたい
 と思った」「そこに流れてる空気を心地よいと感じる」
 「最初からもう一回見返したい(読み返したい)何度で
 も繰り返し見たい(読みたい)」と、これらは物語の中
 に入る体験をした場合の感想です。

 最初から、物語の中に入ることなど考えず、常に外側
 から楽しむという姿勢で向き合う人もいるし、物語の中
 に入るのは苦手なのでそういうことはしたくないと思って
 いる人もいて、そういう人たちは、「ゲート」を必要として
 はいません。それよりはどの角度から眺めるのが快適
 だろうか、という物語との距離感、立ち位置、の方を重視
 する気がします。

 私にとっては、まず「ゲート」が見つかるか見つからない
 か、それが開くか開かないかが、重要です。何の苦労も
 なく、物語の始まりから、目の前でゲートが「ようこそ」 
 と開いている場合もあるし、何かのきっかけ、ある一文
 とか、あるワンシーンとか、ある人物の登場によって、
 とかで急に開かれる場合もある。キャスティングや演技
 が影響することもある。結局見つからないまま外側から
 眺めて終わってしまうこともあるしゲートの在りかはわか
 っても、開いてくれないこともある。一度入ったら最後まで
 ずっと入りきりの場合もあるけど、入ったと思ったら急に
 出されて、また入ってを繰り返す、とか色々なパターンが
 あるのですが、とにかく私にとってはゲートが開き、一度
 でも中に入れてもらえるのが、良い物語。

 子どもの頃は、ほんとんどの物語のゲートは開きっぱ
 なしで、どの本も、アニメも漫画も、「体験」に近いもの
 でした。しかし今は、壁越しに中を覗き込み球体を抱き
 ながら、物語の中には入れずじまいで、「こういう展開、
 あるある」「作り手の意図は」「演出は」のような感想しか
 持てないことも多いです。それが悪いとはいいませんが、
 やっぱりつまらない。トリップがしたいです。没入したい。
 中に入って、体験がしたいです。何なら、トラウマになる
 くらいに傷つけられたいし(でも怖い思いをしたり、血が
 飛び散るのを見たりするのは嫌。戦争も嫌)、天に昇る
 くらい舞い上がりもしたい。憧れに身を焦がしたり成功
 体験にワクワクしたり恋や官能に溺れてみたり。

 この人生は一度きりで、私としての肉と心の体験は、
 どうしても限られたものになってしまう。だからこそ、
 物語の世界を借りて、創作された異空間の中で、
 疑似的にでもたくさんの体験をしたい、たくさんの人
 と出会いたい。それによって自分の内部に生まれる
 ものを、もっと見たいのです。
夏生(なつを) * ひとりごと * 20:52 * comments(4) * trackbacks(0)

こんな夢を見た

JUGEMテーマ:つぶやき。

 緑の絨毯の中華料理店の夢

 二階建てで、一階から二階への階段の部分が
 吹き抜けになった、緑の絨毯がしきつめてある
 中華料理のお店の夢。

 夢の中で私は、このお店は何度も夢に出てきた
 お店だ、と思っている。ただ完全に覚醒してから
 思うと、その緑の絨毯の中華料理のお店を他の
 夢で見た記憶はないので「夢で何度も見たお店」
 というのは夢の中だけでの設定のようだ。いや、
 それとも、目覚めている私の方が「夢の中で何度
 も見た」ということを忘れてしまっているだけなの
 だろうか。

 そこでは占いが行われており、私はいつも断って
 いるのだが、なぜかその日は逃げられない状況
 になっていて「今日こそは、占いやってもらうよ」
 と無理やり占い師のおばあさんが座るテーブル
 に座らされ(テーブルにはお茶と小龍包のよう
 なものが載っている)、私は「ああ、困ったなあ、
 今日は持ち合わせがないのに。お料理込みで
 一体いくら払わされるんだろう」としみったれた
 ことを考えており(夢の中なのに…)、占って
 もらいたいこととか特にないし占いなんて信じ
 てないんだけどなー、とぼんやりしてるところで、
 夢が終わった。

 なぜこんな夢を見たんだろう。最近中華料理
 のお店には行ってないし、占いにも関心ない
 し…と考えていて、ハッ!と気が付いた。

 中華料理店。占い。→「まれ」だ!!
 朝ドラの「まれ」に占い師がいる中華料理の店
 が出てくる、まさにそれだ。あの店は確か全体
 的に赤っぽいカラーのお店だったと思うがなぜ
 か夢の中のお店は緑、グリーン一色だった。
 絨毯も緑、階段も緑、上がってないが二階フロア
 も緑だった。補色か?

 「まれ」は一応まだ見てるけど、夢に見るほどに
 ハマっているというわけではない、てかむしろ、
 なんでまだ見てるのか自分でも不思議っていう
 くらい。

 「まれ」についてはドラマの記事で書きたいとは
 思っているのだけど。
 

 元気だった頃の父の夢

 実家の夢を見る時、家そのものは、大学生の
 頃に建て替えた以前の、古い家の方が出てくる
 ことが多い。子どもの頃から住んでいた家の姿
 の方が根強く印象に残っているらしい。

 だけど父親が夢に出てくると、ご丁寧にも今の、
 認知症になった状態で現れる。やはりこちらの
 印象が強いということか。だいたい父が認知症
 になる前は、夢に出てくることなんか、ほとんど
 なかった。

 そう、なんだけど、先日見た夢に出てきたのは、
 認知症になる前の、元気な頃の父だった。
 私は父と二人で、近所を散歩している。
 ちょうど今くらいの季節で、緑がやわらかい色
 をして、暑くも寒くもなく、日差しが明るくて、風
 が爽やかだった。

 父と私は、何か話し込んでいる。
 内容は、全く記憶にない。ただ、懐かしい、父
 の優しく、穏やかな語り口を覚えている。
 そう、あんなふうに話す人だった、以前は。
 ゆっくりと、噛んで含めるように、ちょっと視線を
 落し気味に。

 今とは全然違う。以前のあれは何だったんだろう。
 装ってたのか、穏やかで優しい人を。それとも今の
 方が、病気によって生み出された別の人格なのか。
 そのあたりはよくわからない。

 ただわかるのは、あの、静かな声で控え目な調子
 で語り聞かせてくれるあの父は、もうどこにも存在
 しないということだ。もしかしたら、父の中のどこか
 にはいるのかもしれないけど、表には現れない。
 会うことはできない。生きているのに、もういない。
 子どもの頃から知っている、なじみのある父とは、
 おそらく永遠に会えないのだ。死んでないのに。

 でも久しぶりに夢で会えた。記憶は幻じゃなかった。
 ひょっとしたら今の父が本来の父で、父は実は昔
 からずっとそうで、私が持っている昔の父の記憶
 の方が嘘なんじゃないかと最近うすら疑っても
 いたのだが、やっぱりあの、優しくて物知りな父
 は実際存在していたのだ。そのことを思い出した。

 しかし夢とは、実に不思議なものだと思う。
 子どもの頃から、夢というものにとても興味が 
 あった。自分が大人になる頃には、頭のいい人
 が夢について研究を進めていて、もっと夢について
 のメカニズムが解明されているのではないか、何なら
 「見たい夢を自由に見る機械」とか「夢を録画する機械」
 とか開発されてるんじゃないか、と思ったが全然だった。
夏生(なつを) * ひとりごと * 12:29 * comments(0) * trackbacks(0)

ひとりじゃない

JUGEMテーマ:つぶやき。
 
 お尻を丸出しにしてはいずり回る父親を、

 口の端から涎を流して咆哮する父の顔を、

 死んだ目をして貪るように食べる父の姿を、

 見ているとたまに、冷たい殺意がわく。

 同時に怒鳴りつけ蹴りつけたくなる激情。

 と同時にひたひたと押し寄せる悲しみ。

 変わってしまったことに対する。

 私が知っていた、それまでの父はいない、
 
 もう帰ってこない、死んだも同然であること。

 昔の父を見上げて慕う子どもの頃の私もいる。

 決して死なないし世界一強いのだと信じていた。

 厚みのある温かい手のひらと優しい話し方。

 一点の曇りもなくお父さん大好きと思っていた心。

 柱の陰から意地の悪い視線を送る者もいる。

 罰が当たった、ざまあ見ろと嘲る、これもきっと私自身。

 そして、この体験と感情の全て、私の身体で、肌で

 感じて、私の目で見て、私の心が消化し産んだ

 想いの全て、今この時、私だけが経験している全てが

 美味しい、きっといつか何かに使える、何かの役に立つ、

 だから、忘れないでいようと、冷静に考える自分。

 たくさんの私が同時に存在する。

 同時に存在しながら父を見て、父に見られている。

 冷え切ってる私、熱い私、悲しむ私、絶望する私、

 子どもの私、蔑む私、「?」マークを大量生産する私、

 それを分析する私、それらを少し離れた場所で観察し、

 無感情のまま何らかの評価を下す私。

 「人間はひとりじゃない」。

 私は、ひとりだと思う。

 生まれる時も死ぬ時もひとりで、人は真に人と関わる

 ことはできない。

 だけど「ひとりじゃない」。

 「ひとりじゃない」のもう一つの意味を知る。

 たくさんの私が父を見ている、と同時に、たくさんの父が

 向こう側から私を見ているのだろう。

 一つの体験を分けあい、別々の、ばらばらな感情を抱き、

 身を寄せ合う集合体が、私だ。ひとりじゃない。

 「人間はひとりじゃない」。
夏生(なつを) * ひとりごと * 13:51 * comments(0) * trackbacks(0)

介護とオタク活動考

JUGEMテーマ:つぶやき。
 
 引き続き実家です。

 「るろうに剣心」もアスマ特典以外まだ観られて
 ないし、V6関連も新曲だとか紅白に関する素敵
 エピソードとかが入ったラジオ音源をチェックする
 時間もなく、余裕なしです。ブログの更新もドラマ
 や映画の感想などのネタはありつつも、書きかけ
 のまま下書きが溜まるばかりで投稿するに至らず。

 介護モード、家族奉仕モード、長女モードなので、
 オタク活動に養分が行かない、エネルギーのベク
 トルが向きづらい、というのが大きいです。不器用
 な部類なので、複数のことに同時に集中できない、
 同時進行できない。介護なら介護、仕事なら仕事、
 恋愛なら恋愛、趣味なら趣味と一筋っぽくなる傾向
 にあるのが我ながら、動物っぽいというか頭悪そうと
 いうか。

 ということで、現在の思考感情モードで一番書きたい
 ことをつらつらと書くことにします。介護に関すること、
 家族に関すること、そこから派生して考えたオタクごと
 に費やすエネルギーとかその方向性などについて等。

 くどいようですけど、興味のない、読む気の起きない
 記事はスルーしてくださいね。あと、こういった内容の
 ことを書くのは同情してもらいたいとか心配してもらい
 たいとか、そういう気持ちからではありません。書いて
 スッキリしたいとか愚痴りたいとかいうのとも少し違う。

 友人知人にも、尋ねられれば勿論、状況や困ってる
 ことについて話すけど、進んで話したり、相談したり、
 愚痴を聞いてもらったり、とかはしていないので。
 こういうのって人に聞いてもらってスッキリするよう
 なタイプのことではないというか、話したところで何
 かが好転するわけでもなんでもないから。

 なので、励ましの言葉とか助言とか、そういったこと
 を誘い受けしているわけではないです。正直、同情
 も心配もあたたかい言葉も、専門家や経験者以外の
 アドバイスも特に求めてないです。ただ、書きたい、
 書いておきたい、という欲望があるだけなので、基本
 放置してください。もちろん読んでいただいて意見や
 思うことなどあればコメント欄に自由に書いていただく
 のは構わないのですが、「お心遣い」はありがたくも、
 遠慮させていただきます。
 
 「大変ですね、頑張ってください」とか言われたら、
 「大変ですが何か。十分頑張っているつもりですが」
 とか返しかねないくらいには精神が荒れてる状態なの
 で、まあ下手に触らぬが吉だと思います。と、忠告して
 おきます。 

 どうして書きたいかといえば、理由は二つです。
 まず書くネタとして、鮮度が非常に高いから。
 ピチピチとして鮮度が高いものの方が、調理のしがい
 があって楽しくもある。一方ピチピチしているがゆえに、
 抱え込んでいるとヘビーでもありこれを何かの形(文章)
 にすることによって、まとめて処理することができる。
 思考や感情の揺れや混乱を、静止したものにできる。
 常に動いている思考や感情や行動や経験が、静止した
 形になることで初めて自身への栄養になる気がするという、
 そういう利点からです。

 あとは以前も書いたけど、ブログに残すことによって、
 経験に基づく情報として、自分を含む誰かの役に立つ
 ようなこともあるかもしれない、という希望。認知症その
 他で家族を介護する可能性がゼロな人なんてそんなに
 はいないと思うので。それほど役に立つ情報ではない
 だろうけど。

 自分自身や家族についてネットで赤裸々に語ることを
 よしとしない方もいらっしゃるとは思うのですが、これも
 くどいほど繰り返し言ってきていますが、私は世界人口
 分の一である自分の境遇や経験や感情など、特に勿体
 つけるような、秘するようなことでもないと考えるし(固有
 名詞等明かさない限りはですが)、ケースとしては現在
 の日本でも凡庸な部類だと思うし、内情を明かすことに
 ついての羞恥心もないのです。だいたい、自分を知って
 いる人、あるいは知らない人、に知られてまずいような
 ことはそもそもネットに流したりしないです。

 てことで私が書きたいだけの記事なので畳んどきます。
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夏生(なつを) * ひとりごと * 23:35 * comments(0) * trackbacks(0)

嫌いであるということ

JUGEMテーマ:つぶやき。

 現在放送中の、日曜21時日曜劇場枠の某
 ドラマ、好きな脚本家の作品だし、面白いの
 だろうな、というのはわかってるけど見ていま
 せん。「それ、見てない」って言うと周りから、
 エーッて驚かれる(笑)。

 ヒロインの女優さんは好きなんです。でも…。
 後は皆まで言わないので察していただきたい。
 苦手な俳優さんて、結構いるんですけど、そう
 いう人が、脇にいるならともかく、メインに座り、
 そこが話の中心だったりするとしんどいし特に
 好きな人が書いてるホンだとそこにやっかみと
 いうか嫉妬みたいなことも加わってくるので、
 余計に観れないとこ、あります。

 苦手、嫌い、というのは、主に見た目と声質の
 問題だと思います。その人の性格とか私生活
 とかどうでもいいことで、自分には全く関わりの
 ないことだし(例えば性格が悪かったとして私に
 迷惑がかかるわけでもないし、良かったところで
 私に恩恵があるわけでもなし、私生活も同様)。
 単純に、表に出しているもの、から受ける印象が
 良いか良くないか、快楽か快楽じゃないか、という
 ただその一点。それはもうほんとに食べ物の好み
 と一緒だから克服するのは難しい。 

 見た目と声が好きじゃないって、結構大きな
 ことです。だいたい、顔と声質が苦手な人って
 ぶっちゃけキャラも苦手なことが多いし。キャラ的
 には好きなんだけど、顔と声が好きじゃないとかっ
 てケースは稀。私は思い当たらない。 
 顔と声が苦手だったら、だいたい、キャラも苦手。

 だってその内面が顔つきを作るし声質にも内面
 の何かの要素が響きとして加わってると思うもの。
 でも、嫌っている、というのは、それを悪だとみな
 しているとか、蔑んでいるとか、そういうこととは
 違います。例えば、人参や牛乳が嫌いだという
 人がいるとして、その人が人参を悪だと思ってる
 とか牛乳を軽蔑してるとかないのと同じく、人間
 の好き嫌いも、同じように、ただ合わなくて苦手
 なだけ。

 最近思うのは、何かを嫌ったり選り好みしたり
 苦手意識を持ったりしても、得することは一つ
 もなく、損しかしないということ。そのせいで、
 良いものに出会う機会を逃す、世界が狭くなる。
 でも「好きじゃない」「苦手だ」と感じることを止め
 られない。なぜなら、そこには理由がないから。
 理由があれば、そこを論理的に修正して、苦手
 意識を薄れさせることはできると思う。憎しみで
 あれば、さじ加減で愛情に変換できる可能性も
 なくはない。だけど「この人の顔が苦手、雰囲気
 や声が苦手」というのに、論理的に修正可能な
 理由などないし、因果がないところに憎しみなど
 生まれるはずもない。

 例えばだいぶ昔、V6が、特にカミセンが、嫌い
 でした。だってすごい態度悪そうで生意気そう
 に見えてなんか怖かったから。あと、キンキの
 ファンだったのでキンキのCDデビューを心待ち
 にしてたら先にV6がデビューしちゃった、という
 経緯があり、若干憎んでもいたと思う。でも当時
 から、森田剛くんの顔、というか外見、が実は好き
 で、ほんというと、なんてかっこいい、かわいい、
 なんて好みの顔をしてるんだろうと思ってました。
 あと当時から井ノ原くんの声には惹かれていたし、
 井ノ原くんの外見もまた好みでした。そのように、
 バカバカしくても理由と因果があれば、そこを取り
 払ってしまえば、「大好き」に変化することも可能
 なのです。でも何もなくただ「嫌い」「苦手」という
 感情が生じてる場合は難しい。

 ただ嫌い、なだけなので、ただ、視界にいれない
 ようにすれば良いだけの話で、存在するなとまで
 思わないし、むしろ理由もなく嫌ってごめんなさい
 という気持ちもあり、その人に対して言いたいこと、
 悪口、など何もないし、視界に入れないから普段、
 その存在について考えたりすることもなく、だから
 「アンチ」などではない。

 「アンチ」とは「好き」をこじらせた結果か何らかの
 理由で憎んでいる、ということで、だからその存在
 について、溢れるほどに思い考えてしまうし、それ
 を自分の中にとどめていられなくて、言葉や行為で
 「アンチ」的活動をしてしまうのだろう。それは情熱。
 私は単に嫌いなものに対しては情熱などカケラ
 もない。とにかく触れなければよい、そこから何か
 を受け取る機会がなければ快適、それだけ。

 「アンチ」な芸能人は特にいないんだけど「嫌い」
 「苦手」な芸能人は結構な数いるので、そうすると、
 その人が関わる作品を避けざるを得なくなって、
 結果、自分がつまらない思いをする。なので嫌い
 なものや苦手なものをなるべく少なくしたいと思う
 のだけど、どうしたらいいんでしょうね。

 以前、某嫌いな俳優が出ているドラマをでも面白
 そうだから、どうしても見たくて見た、ことがある。
 やはり作品は面白かった。でも嫌いな俳優のこと
 はやはり嫌いで、好きになることはなかった。

 理由がない、ということは、何か根源的なことに関
 わることとか、憶えてないけど何らかのトラウマが
 よみがえるような外見とか(小さい頃嫌なこと言わ
 れりされたりした相手の顔を無意識下で覚えてて
 それと似てるとか)、もしかしたらそういうことなの
 かもしれないし。とか変にこじつけたくなってしまう
 のは「理由もなく嫌う」という感情が自分の中にある
 のがどうにも理不尽で腹立たしいというか、不愉快
 だからなのだと思う。理想を言うなら、存在する全て
 のものを、好きだと思い心地よくすごしたい。そういう
 世界に住みたいと思う。
夏生(なつを) * ひとりごと * 10:58 * comments(6) * trackbacks(0)

夢の話

JUGEMテーマ:つぶやき。

 こんな夢を見た。

 あまりにもずうずうしく身の程知らずで恥ずか
 しいので閉じておきます。
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夏生(なつを) * ひとりごと * 07:25 * comments(2) * trackbacks(0)
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