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悲しい
JUGEMテーマ:つぶやき。
 
 24時間テレビ明け月曜日のあさイチで「しつけ」に
 ついて取り上げていて短縮ヴァージョンながら結構
 面白かったので通常ヴァージョンでまたやって欲しい。
 
 この「女性リアル」の特集コーナーは、わりと当たり
 外れがあって、その時の構成にもよるけどコメント
 するゲストの顔ぶれにも左右されるところがあり、
 この時のメンバー(松本明子さん、山口もえさん、
 MEGUMIさん)には感情的になったり極論を言い
 過ぎたりする人がいなかったので見やすかった。

 という話とは別に、特集のVTRの中で、泣いている
 赤ちゃん、よちよち歩きの幼児、が登場するのを見
 ていて、ふいに悲しい気持ちに襲われた。

 例の、中学生二人が殺された事件。
 まだ幼い被害者が赤ん坊だったのはほんの10年前
 のことなのだ、と思うのと同時に、同じく、殺した犯人
 にもまたこういう頃があったという紛れもない事実に
 落ち込む。

 ふぎゃふぎゃと頼りなく泣き、首も座っておらず、
 小さな丸い手をして、甘い香りのする赤ちゃん、
 だった頃がない人間はいない。

 奪われる生命以上に、奪う生命に思いを馳せて
 しまう。自分に子がいたとして、被害者の側になる
 のはもちろん恐ろしく悲しいが、加害者の側になる
 のはもっと恐ろしい。どうしたら被害者にならないで
 すむか、ということを考えないといけないのは無論、
 そうなのだが、どうしたら加害者を育てずに済むの
 か、ということが先に頭に浮かび迷路に迷い込む。

 性癖は、親や本人に責任があるんだろうか。
 それは多分、ないと思う。
 「こういう性癖を持って生まれよう」と思った子も
 「こういう性癖の子に育てよう」と思って育てた親
 も当然いない。だったら何が。特に性癖なんて、
 生まれた時点ではわからない。目に見えない。
 そういう性癖を持っている人が全て犯罪を犯すわけ
 ではないが、それを欲望として持ってしまった以上、
 生涯、それをストレスとして抱え込まないといけない
 のだろうか。そこを救える方法はないのか。自分は
 たまたま、「他人と多少違うかもしれなくても特に害
 のない性癖の持ち主」、だったから良かったな、とは
 思えない。悲しい。
| ひとりごと | 19:59 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
自分ごと
JUGEMテーマ:つぶやき。

 「天皇の料理番」が終わり2週間近く経ちました。
 来週はV6のベストアルバムが出るのでそれに
 向けての雑誌やテレビ等の露出が増えそうです
 が、今現在はちょっと気持ちが凪いでいて(萎え
 てるわけではない)、ちょっとお疲れ休みというか
 クールダウン期というか、情報に一目散に飛びつ
 いて、燃えたり萌えたりする気分ではないみたい。

 私が何かに夢中になっていない時、そういう気分
 が薄まっている時、一番関心があるのは、自分の
 こと、自分自身のことです。ベクトルは、外側には
 そんなに向いてない、常に内側。だいたい何かに
 夢中になっている時でも(それが恋愛であろうと、
 オタク事であろうと)その対象を通して、それを好き
 であるという現象を通して、自分を見ているのです。
 自分だけを見ているのです。私が本当に愛している
 のは自分、自分の内部だけ。なぜならそれが唯一、
 知っている世界だからです。他人の内側の世界の
 ことはわからない、知り得ない、感知する能力が私
 にはない。未知なるものに興味はあっても深くは愛
 せないと思う。私は、私の見たもの聞いたもの私が
 美しいと感じるもの私の痛み私の喜びと悲しみ私の
 記憶私の心と身体に触れてくるものの感触を愛する。


  綿菓子・ソフトクリーム・さくらんぼ

 今の自分を知っている人ならおそらく「嘘だろう」と
 言うと思うが、子どもの頃に大変食の細い時期が
 あった。躾に厳しく「何でも残さず食べなさい」な
 家庭だったので怒られたくなくてかなり無理して
 一生懸命食べていた(親の目を盗んでこっそり
 捨てたりもしていた)から、おそらく母親も、私に
 食べられない時期があったことを認識してない
 と思う。言っても信じないだろう。だいたいミルク
 飲みも良かったらしいし、その時期以外はずっと
 「とりあえず何でもよく食べる人」としての人生を
 歩んでいるので。ただ、私の中で、あの頃の、食
 への恐れ、食べる辛さ、口に入れたものを吐き出
 したくなる衝動、は記憶として強く残っている。

 好き嫌いが多い、というのとも違っていて、とにかく
 「がっつりと重く、栄養のあるもの」が苦手だった。
 米、牛乳、肉類、等。米よりも、軽いパンとか形状
 的に流し込み安い麺類の方が食べやすかったし、
 肉よりも、魚の方が重くなくてさっぱりしているの
 で食べやすかった。牛乳は、コップ半分くらいなら
 何とか飲めるが、幼稚園や小学校の給食で出る
 瓶一本とかパック1個とか、ありえない量だった。

 朝食の食パンのトーストも、本当言うと一枚は多
 くて、なのでジャムを塗って半分に折りたたんで
 サンドイッチのようにして食べていた。その方が
 見た目的に、量が少なく感じられたので。

 当時、私にとって、食べることと眠ることは、恐怖
 だった。なぜ一日に三度も食べ、二度も寝ないと
 (家にいる時はお昼寝が義務付けられていた為)
 いけないのかわからなかった。ガツガツ食べられ
 る人や、3秒で眠れるのび太が羨ましかった。

 その頃(4歳〜7歳くらい)の写真を見ると手足は
 ガリガリに細くお腹はぼっこりな体型で、体力もなく
 しょっちゅう風邪を引いたりしていたので栄養失調
 気味だったのかも。

 そのようだった幼少期の私が好きだった食べ物が
 綿菓子とソフトクリームとさくらんぼの、の三つ。
 (ただしソフトクリームはバニラに限る)
 口に入れると夢のように儚く消えてしまう綿菓子。
 不思議な形状で白く冷たく柔らかく食べても食べな
 くてもすぐに溶けてしまうソフトクリーム。
 世にも可愛らしい形をして真っ赤でも真っ黄色でも
 ない微妙な美しい色合いのつぷんとした歯ごたえ
 にほのかな甘酸っぱさのさくらんぼ。

 どれも、私の中にズケズケと入ってきたりしない、
 長いこと居座ったり、後に残ったりしない、控え目
 でイケズな、全く腹持ちしないささやかな食べ物。
 その上、綿菓子は祭りの時しか、ソフトクリームは
 お出かけした時しか、さくらんぼは6月前後の短い
 期間にしか、出会えないものなのだ。

 どうやって、何がきっかけでその時期を抜けたのか
 さっぱり覚えてないのだが、いつのまにか、人一倍
 何でも良く食べる子になり、大人になりました(けど
 眠ることは今でも苦手、未だにのび太羨ましい)。

 ソフトクリームは現在も若干マニアック気味に好き
 で、行動範囲内にあるソフトクリーム(ただしバニラ)
 はだいたい試しています。

 さくらんぼは、いまだにありとあらゆる飲食物で一番
 好きなものです(酒よりもさくらんぼが好き)。

 理想の食物。

150707_104645.jpg

 ちなみに綿菓子の方はある時「所詮はザラメ」という
 ことに気づいてしまって、熱が冷めた。大人にはなり
 たくないものである。


 飽きっぽくない

 そのように執念深く、さくらんぼやソフトクリームを愛して
 いる私が、「飽きっぽい」なんてはずはないのです。

 だがしかし、周りからは「飽きっぽい」と見られている節が
 あるのでここで今一度、自己弁護しておきたい。

 一途に、ただ一人の人を追いかけているという人が割と
 周りに多い中、私は色々な人を好きになってきました。
 長年、好きでい続けている人もいるにはいるけど少なく、
 だいたい一時的に激しく夢中になり、ある時期を境に、
 ぱったりというパターンが多いです。

 それ見ろ飽きっぽいじゃないか、と言われるかもしれない。
 でも、違うんです。私は愛してるよ今でも、好きになった頃
 のその時点での姿形や雰囲気を。一生愛するし飽きること
 は絶対にない。

 薬師丸ひろ子は、今の演技派のかわいい中年女優では
 なく、ガラスみたいに透明で壊れそうだった十代の頃の
 彼女に憧れていたのです。女神に見えていました。

 キンキキッズはお互いを見て恥ずかしそうに笑ったり、
 テレビ番組でなんでもないことのように手を繋いだり、
 歌うのも踊るのも力いっぱい一生懸命だった、少年の
 頃の彼らを愛していたのです。

 西川貴教は、プロデューサーの浅倉大介のことだけを
 見て、ひたすら彼に愛されたがり、自分の曲として作ら
 れたものを証のようにして愛し、魂をこめて歌い、時に
 は想いをいれすぎて涙を流し、ライヴでは細い身体で
 体力を使い果たしてぶっ倒れる、そういう尊い生き物
 であった時代を愛していたのです。

 映画「ねらわれた学園」を観れば、初めてひろ子ちゃん
 を見た衝撃とときめきがよみがえってワクワクするし、
 キンキの武道館ファーストコンサートを見ればやっぱり
 この子たちがジャニーズ最高傑作と思うし、TMRの
 アンティノスレコード&ダーウィン所属時代のライヴ映像
 を観れば何度だって号泣できるのです。

 私は飽きてない。断じて飽きてない。ただ対象が変化した
 だけだ、成長という形で。それはもちろん悪いことではく、
 生きているものとして当たり前のこと。私だって、薬師丸
 ひろ子を好きだった頃から、キンキキッズを好きだった頃
 から、西川を好きだった頃から、確実に変化してる(それ
 を成長といえるかどうかは自信が持てないけど)。

 成長に伴う変化が悪いことだと言ってるわけではない
 し、変化することそれ自体を受け入れられないわけで
 はない。どう変化したか、何に変化したか、それを好む
 か好まないか、というその一点だと思う。

 例えばおたまじゃくしがカエルになる、青虫が蝶になる。
 私はおたまじゃくしは嫌いじゃないし、カエルもまた嫌い
 じゃない。そして青虫は、キャベツについていた小さいの
 を虫かごで大事に飼ったことがあるくらい、わりと好き。
 (というのも広島の母方の祖母が養蚕をしていたので
  あの手の幼虫には慣れていたというのが多分大きい)
 (でもアゲハチョウの幼虫は変な模様があるので苦手)
 だけど蝶々はこの世に生きる生物の中で一番大嫌い。
 ゴキブリより嫌い。

 青虫や蚕に「いつまでもそのままの姿でいてね」と言って
 も無理なのだ。死なない限りさなぎになり蝶または蛾に
 なる。でも青虫かわいい、蚕かわいい、と思って愛でて
 いたら、全然違う姿、蛾とか蝶になられて、それでも引き
 続き愛せよと言われても「全然違うじゃん…」としか、返す
 言葉がない。全然違う。全然違う。全然違う。

 若い頃の薬師丸ひろ子、キンキ、西川が青虫で、現在
 の姿が、蝶や蛾だ、とまで言ってるわけではないが、
 それに近い違和感と戸惑いを感じているのは事実です。

 だから「飽きっぽい」などと言われるのは甚だ心外。
 違和感を我慢できない、だけなのです。
 根本的に、生きているものを愛せないのだろうと言われ
 たことがあります。生きとし生けるものはどんなものでも
 変化するから。その通りかもしれない。否定はできない。
 私は変化に弱い。

 なのでこれからも、どんなに好きな対象でも「変態した!」
 と感じたら、そして、それを受け入れがたいと感じたら、
 バッサバッサと切り捨てると思います。なので私の愛情
 なんて信じないでほしい。私の愛は永遠なんかではあり
 ません。ただ、飽きっぽいわけではない。記憶の中の、
 愛していた時の姿を、永遠に愛するだけです。
| ひとりごと | 22:18 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
物語について
JUGEMテーマ:つぶやき。

 自分にとって、「物語」とは何か、ということについて
 語ります。たとえ話を用いながらの、抽象的な話に
 なるかと思うので、苦手な方はスルーしてください。
 (一応、この後に書く予定の「天皇の料理番」の感想
  の前振りのようなものでもあったりはします)

 以前にも少し書きかけたような記憶がありますが、
 イメージとしては、「ガラスのような、透明、もしくは、
 半透明の壁に覆われた球体の世界」であり、これは
 小説であっても漫画であってもアニメであっても映画
 でもドラマでも、同じです。物語であるならば。

 この球体には目に見えない入り口がついていて、
 自分ではそれを「ゲート」と呼んでいます。このゲート
 が開けば、球体の世界の中、物語の中に入れます。
 開かなくても、壁は透明、もしくは半透明なので、外側
 から、ちょうど水槽の魚が泳ぐ様を眺めるようにして、
 楽しむことはできます。

 球体の中に入っても、入らなくても、物語を楽しむこと、
 それ自体は可能なのですが、私は、外側から見ている
 よりも、中に入って楽しむことを好みます。

 「こういう展開ね〜あるある」「作り手は、これこれこう
 いうことがしたいのかな」「「この演出はオシャレだね」
 みたいなのは物語を外側から見ている時の感想です。
 没入しているわけではないので、作品を俯瞰した構図
 とか作者の意図とか些末な部分の長所短所とかを、
 客観的に見て取ることができる。

 「登場人物の言動や行動に凹んだ」「殺してやりたい
 と思った」「そこに流れてる空気を心地よいと感じる」
 「最初からもう一回見返したい(読み返したい)何度で
 も繰り返し見たい(読みたい)」と、これらは物語の中
 に入る体験をした場合の感想です。

 最初から、物語の中に入ることなど考えず、常に外側
 から楽しむという姿勢で向き合う人もいるし、物語の中
 に入るのは苦手なのでそういうことはしたくないと思って
 いる人もいて、そういう人たちは、「ゲート」を必要として
 はいません。それよりはどの角度から眺めるのが快適
 だろうか、という物語との距離感、立ち位置、の方を重視
 する気がします。

 私にとっては、まず「ゲート」が見つかるか見つからない
 か、それが開くか開かないかが、重要です。何の苦労も
 なく、物語の始まりから、目の前でゲートが「ようこそ」 
 と開いている場合もあるし、何かのきっかけ、ある一文
 とか、あるワンシーンとか、ある人物の登場によって、
 とかで急に開かれる場合もある。キャスティングや演技
 が影響することもある。結局見つからないまま外側から
 眺めて終わってしまうこともあるしゲートの在りかはわか
 っても、開いてくれないこともある。一度入ったら最後まで
 ずっと入りきりの場合もあるけど、入ったと思ったら急に
 出されて、また入ってを繰り返す、とか色々なパターンが
 あるのですが、とにかく私にとってはゲートが開き、一度
 でも中に入れてもらえるのが、良い物語。

 子どもの頃は、ほんとんどの物語のゲートは開きっぱ
 なしで、どの本も、アニメも漫画も、「体験」に近いもの
 でした。しかし今は、壁越しに中を覗き込み球体を抱き
 ながら、物語の中には入れずじまいで、「こういう展開、
 あるある」「作り手の意図は」「演出は」のような感想しか
 持てないことも多いです。それが悪いとはいいませんが、
 やっぱりつまらない。トリップがしたいです。没入したい。
 中に入って、体験がしたいです。何なら、トラウマになる
 くらいに傷つけられたいし(でも怖い思いをしたり、血が
 飛び散るのを見たりするのは嫌。戦争も嫌)、天に昇る
 くらい舞い上がりもしたい。憧れに身を焦がしたり成功
 体験にワクワクしたり恋や官能に溺れてみたり。

 この人生は一度きりで、私としての肉と心の体験は、
 どうしても限られたものになってしまう。だからこそ、
 物語の世界を借りて、創作された異空間の中で、
 疑似的にでもたくさんの体験をしたい、たくさんの人
 と出会いたい。それによって自分の内部に生まれる
 ものを、もっと見たいのです。
| ひとりごと | 20:52 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
こんな夢を見た
JUGEMテーマ:つぶやき。

 緑の絨毯の中華料理店の夢

 二階建てで、一階から二階への階段の部分が
 吹き抜けになった、緑の絨毯がしきつめてある
 中華料理のお店の夢。

 夢の中で私は、このお店は何度も夢に出てきた
 お店だ、と思っている。ただ完全に覚醒してから
 思うと、その緑の絨毯の中華料理のお店を他の
 夢で見た記憶はないので「夢で何度も見たお店」
 というのは夢の中だけでの設定のようだ。いや、
 それとも、目覚めている私の方が「夢の中で何度
 も見た」ということを忘れてしまっているだけなの
 だろうか。

 そこでは占いが行われており、私はいつも断って
 いるのだが、なぜかその日は逃げられない状況
 になっていて「今日こそは、占いやってもらうよ」
 と無理やり占い師のおばあさんが座るテーブル
 に座らされ(テーブルにはお茶と小龍包のよう
 なものが載っている)、私は「ああ、困ったなあ、
 今日は持ち合わせがないのに。お料理込みで
 一体いくら払わされるんだろう」としみったれた
 ことを考えており(夢の中なのに…)、占って
 もらいたいこととか特にないし占いなんて信じ
 てないんだけどなー、とぼんやりしてるところで、
 夢が終わった。

 なぜこんな夢を見たんだろう。最近中華料理
 のお店には行ってないし、占いにも関心ない
 し…と考えていて、ハッ!と気が付いた。

 中華料理店。占い。→「まれ」だ!!
 朝ドラの「まれ」に占い師がいる中華料理の店
 が出てくる、まさにそれだ。あの店は確か全体
 的に赤っぽいカラーのお店だったと思うがなぜ
 か夢の中のお店は緑、グリーン一色だった。
 絨毯も緑、階段も緑、上がってないが二階フロア
 も緑だった。補色か?

 「まれ」は一応まだ見てるけど、夢に見るほどに
 ハマっているというわけではない、てかむしろ、
 なんでまだ見てるのか自分でも不思議っていう
 くらい。

 「まれ」についてはドラマの記事で書きたいとは
 思っているのだけど。
 

 元気だった頃の父の夢

 実家の夢を見る時、家そのものは、大学生の
 頃に建て替えた以前の、古い家の方が出てくる
 ことが多い。子どもの頃から住んでいた家の姿
 の方が根強く印象に残っているらしい。

 だけど父親が夢に出てくると、ご丁寧にも今の、
 認知症になった状態で現れる。やはりこちらの
 印象が強いということか。だいたい父が認知症
 になる前は、夢に出てくることなんか、ほとんど
 なかった。

 そう、なんだけど、先日見た夢に出てきたのは、
 認知症になる前の、元気な頃の父だった。
 私は父と二人で、近所を散歩している。
 ちょうど今くらいの季節で、緑がやわらかい色
 をして、暑くも寒くもなく、日差しが明るくて、風
 が爽やかだった。

 父と私は、何か話し込んでいる。
 内容は、全く記憶にない。ただ、懐かしい、父
 の優しく、穏やかな語り口を覚えている。
 そう、あんなふうに話す人だった、以前は。
 ゆっくりと、噛んで含めるように、ちょっと視線を
 落し気味に。

 今とは全然違う。以前のあれは何だったんだろう。
 装ってたのか、穏やかで優しい人を。それとも今の
 方が、病気によって生み出された別の人格なのか。
 そのあたりはよくわからない。

 ただわかるのは、あの、静かな声で控え目な調子
 で語り聞かせてくれるあの父は、もうどこにも存在
 しないということだ。もしかしたら、父の中のどこか
 にはいるのかもしれないけど、表には現れない。
 会うことはできない。生きているのに、もういない。
 子どもの頃から知っている、なじみのある父とは、
 おそらく永遠に会えないのだ。死んでないのに。

 でも久しぶりに夢で会えた。記憶は幻じゃなかった。
 ひょっとしたら今の父が本来の父で、父は実は昔
 からずっとそうで、私が持っている昔の父の記憶
 の方が嘘なんじゃないかと最近うすら疑っても
 いたのだが、やっぱりあの、優しくて物知りな父
 は実際存在していたのだ。そのことを思い出した。

 しかし夢とは、実に不思議なものだと思う。
 子どもの頃から、夢というものにとても興味が 
 あった。自分が大人になる頃には、頭のいい人
 が夢について研究を進めていて、もっと夢について
 のメカニズムが解明されているのではないか、何なら
 「見たい夢を自由に見る機械」とか「夢を録画する機械」
 とか開発されてるんじゃないか、と思ったが全然だった。
| ひとりごと | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ひとりじゃない
JUGEMテーマ:つぶやき。
 
 お尻を丸出しにしてはいずり回る父親を、

 口の端から涎を流して咆哮する父の顔を、

 死んだ目をして貪るように食べる父の姿を、

 見ているとたまに、冷たい殺意がわく。

 同時に怒鳴りつけ蹴りつけたくなる激情。

 と同時にひたひたと押し寄せる悲しみ。

 変わってしまったことに対する。

 私が知っていた、それまでの父はいない、
 
 もう帰ってこない、死んだも同然であること。

 昔の父を見上げて慕う子どもの頃の私もいる。

 決して死なないし世界一強いのだと信じていた。

 厚みのある温かい手のひらと優しい話し方。

 一点の曇りもなくお父さん大好きと思っていた心。

 柱の陰から意地の悪い視線を送る者もいる。

 罰が当たった、ざまあ見ろと嘲る、これもきっと私自身。

 そして、この体験と感情の全て、私の身体で、肌で

 感じて、私の目で見て、私の心が消化し産んだ

 想いの全て、今この時、私だけが経験している全てが

 美味しい、きっといつか何かに使える、何かの役に立つ、

 だから、忘れないでいようと、冷静に考える自分。

 たくさんの私が同時に存在する。

 同時に存在しながら父を見て、父に見られている。

 冷え切ってる私、熱い私、悲しむ私、絶望する私、

 子どもの私、蔑む私、「?」マークを大量生産する私、

 それを分析する私、それらを少し離れた場所で観察し、

 無感情のまま何らかの評価を下す私。

 「人間はひとりじゃない」。

 私は、ひとりだと思う。

 生まれる時も死ぬ時もひとりで、人は真に人と関わる

 ことはできない。

 だけど「ひとりじゃない」。

 「ひとりじゃない」のもう一つの意味を知る。

 たくさんの私が父を見ている、と同時に、たくさんの父が

 向こう側から私を見ているのだろう。

 一つの体験を分けあい、別々の、ばらばらな感情を抱き、

 身を寄せ合う集合体が、私だ。ひとりじゃない。

 「人間はひとりじゃない」。
| ひとりごと | 13:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
介護とオタク活動考
JUGEMテーマ:つぶやき。
 
 引き続き実家です。

 「るろうに剣心」もアスマ特典以外まだ観られて
 ないし、V6関連も新曲だとか紅白に関する素敵
 エピソードとかが入ったラジオ音源をチェックする
 時間もなく、余裕なしです。ブログの更新もドラマ
 や映画の感想などのネタはありつつも、書きかけ
 のまま下書きが溜まるばかりで投稿するに至らず。

 介護モード、家族奉仕モード、長女モードなので、
 オタク活動に養分が行かない、エネルギーのベク
 トルが向きづらい、というのが大きいです。不器用
 な部類なので、複数のことに同時に集中できない、
 同時進行できない。介護なら介護、仕事なら仕事、
 恋愛なら恋愛、趣味なら趣味と一筋っぽくなる傾向
 にあるのが我ながら、動物っぽいというか頭悪そうと
 いうか。

 ということで、現在の思考感情モードで一番書きたい
 ことをつらつらと書くことにします。介護に関すること、
 家族に関すること、そこから派生して考えたオタクごと
 に費やすエネルギーとかその方向性などについて等。

 くどいようですけど、興味のない、読む気の起きない
 記事はスルーしてくださいね。あと、こういった内容の
 ことを書くのは同情してもらいたいとか心配してもらい
 たいとか、そういう気持ちからではありません。書いて
 スッキリしたいとか愚痴りたいとかいうのとも少し違う。

 友人知人にも、尋ねられれば勿論、状況や困ってる
 ことについて話すけど、進んで話したり、相談したり、
 愚痴を聞いてもらったり、とかはしていないので。
 こういうのって人に聞いてもらってスッキリするよう
 なタイプのことではないというか、話したところで何
 かが好転するわけでもなんでもないから。

 なので、励ましの言葉とか助言とか、そういったこと
 を誘い受けしているわけではないです。正直、同情
 も心配もあたたかい言葉も、専門家や経験者以外の
 アドバイスも特に求めてないです。ただ、書きたい、
 書いておきたい、という欲望があるだけなので、基本
 放置してください。もちろん読んでいただいて意見や
 思うことなどあればコメント欄に自由に書いていただく
 のは構わないのですが、「お心遣い」はありがたくも、
 遠慮させていただきます。
 
 「大変ですね、頑張ってください」とか言われたら、
 「大変ですが何か。十分頑張っているつもりですが」
 とか返しかねないくらいには精神が荒れてる状態なの
 で、まあ下手に触らぬが吉だと思います。と、忠告して
 おきます。 

 どうして書きたいかといえば、理由は二つです。
 まず書くネタとして、鮮度が非常に高いから。
 ピチピチとして鮮度が高いものの方が、調理のしがい
 があって楽しくもある。一方ピチピチしているがゆえに、
 抱え込んでいるとヘビーでもありこれを何かの形(文章)
 にすることによって、まとめて処理することができる。
 思考や感情の揺れや混乱を、静止したものにできる。
 常に動いている思考や感情や行動や経験が、静止した
 形になることで初めて自身への栄養になる気がするという、
 そういう利点からです。

 あとは以前も書いたけど、ブログに残すことによって、
 経験に基づく情報として、自分を含む誰かの役に立つ
 ようなこともあるかもしれない、という希望。認知症その
 他で家族を介護する可能性がゼロな人なんてそんなに
 はいないと思うので。それほど役に立つ情報ではない
 だろうけど。

 自分自身や家族についてネットで赤裸々に語ることを
 よしとしない方もいらっしゃるとは思うのですが、これも
 くどいほど繰り返し言ってきていますが、私は世界人口
 分の一である自分の境遇や経験や感情など、特に勿体
 つけるような、秘するようなことでもないと考えるし(固有
 名詞等明かさない限りはですが)、ケースとしては現在
 の日本でも凡庸な部類だと思うし、内情を明かすことに
 ついての羞恥心もないのです。だいたい、自分を知って
 いる人、あるいは知らない人、に知られてまずいような
 ことはそもそもネットに流したりしないです。

 てことで私が書きたいだけの記事なので畳んどきます。
続きを読む >>
| ひとりごと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
嫌いであるということ
JUGEMテーマ:つぶやき。

 現在放送中の、日曜21時日曜劇場枠の某
 ドラマ、好きな脚本家の作品だし、面白いの
 だろうな、というのはわかってるけど見ていま
 せん。「それ、見てない」って言うと周りから、
 エーッて驚かれる(笑)。

 ヒロインの女優さんは好きなんです。でも…。
 後は皆まで言わないので察していただきたい。
 苦手な俳優さんて、結構いるんですけど、そう
 いう人が、脇にいるならともかく、メインに座り、
 そこが話の中心だったりするとしんどいし特に
 好きな人が書いてるホンだとそこにやっかみと
 いうか嫉妬みたいなことも加わってくるので、
 余計に観れないとこ、あります。

 苦手、嫌い、というのは、主に見た目と声質の
 問題だと思います。その人の性格とか私生活
 とかどうでもいいことで、自分には全く関わりの
 ないことだし(例えば性格が悪かったとして私に
 迷惑がかかるわけでもないし、良かったところで
 私に恩恵があるわけでもなし、私生活も同様)。
 単純に、表に出しているもの、から受ける印象が
 良いか良くないか、快楽か快楽じゃないか、という
 ただその一点。それはもうほんとに食べ物の好み
 と一緒だから克服するのは難しい。 

 見た目と声が好きじゃないって、結構大きな
 ことです。だいたい、顔と声質が苦手な人って
 ぶっちゃけキャラも苦手なことが多いし。キャラ的
 には好きなんだけど、顔と声が好きじゃないとかっ
 てケースは稀。私は思い当たらない。 
 顔と声が苦手だったら、だいたい、キャラも苦手。

 だってその内面が顔つきを作るし声質にも内面
 の何かの要素が響きとして加わってると思うもの。
 でも、嫌っている、というのは、それを悪だとみな
 しているとか、蔑んでいるとか、そういうこととは
 違います。例えば、人参や牛乳が嫌いだという
 人がいるとして、その人が人参を悪だと思ってる
 とか牛乳を軽蔑してるとかないのと同じく、人間
 の好き嫌いも、同じように、ただ合わなくて苦手
 なだけ。

 最近思うのは、何かを嫌ったり選り好みしたり
 苦手意識を持ったりしても、得することは一つ
 もなく、損しかしないということ。そのせいで、
 良いものに出会う機会を逃す、世界が狭くなる。
 でも「好きじゃない」「苦手だ」と感じることを止め
 られない。なぜなら、そこには理由がないから。
 理由があれば、そこを論理的に修正して、苦手
 意識を薄れさせることはできると思う。憎しみで
 あれば、さじ加減で愛情に変換できる可能性も
 なくはない。だけど「この人の顔が苦手、雰囲気
 や声が苦手」というのに、論理的に修正可能な
 理由などないし、因果がないところに憎しみなど
 生まれるはずもない。

 例えばだいぶ昔、V6が、特にカミセンが、嫌い
 でした。だってすごい態度悪そうで生意気そう
 に見えてなんか怖かったから。あと、キンキの
 ファンだったのでキンキのCDデビューを心待ち
 にしてたら先にV6がデビューしちゃった、という
 経緯があり、若干憎んでもいたと思う。でも当時
 から、森田剛くんの顔、というか外見、が実は好き
 で、ほんというと、なんてかっこいい、かわいい、
 なんて好みの顔をしてるんだろうと思ってました。
 あと当時から井ノ原くんの声には惹かれていたし、
 井ノ原くんの外見もまた好みでした。そのように、
 バカバカしくても理由と因果があれば、そこを取り
 払ってしまえば、「大好き」に変化することも可能
 なのです。でも何もなくただ「嫌い」「苦手」という
 感情が生じてる場合は難しい。

 ただ嫌い、なだけなので、ただ、視界にいれない
 ようにすれば良いだけの話で、存在するなとまで
 思わないし、むしろ理由もなく嫌ってごめんなさい
 という気持ちもあり、その人に対して言いたいこと、
 悪口、など何もないし、視界に入れないから普段、
 その存在について考えたりすることもなく、だから
 「アンチ」などではない。

 「アンチ」とは「好き」をこじらせた結果か何らかの
 理由で憎んでいる、ということで、だからその存在
 について、溢れるほどに思い考えてしまうし、それ
 を自分の中にとどめていられなくて、言葉や行為で
 「アンチ」的活動をしてしまうのだろう。それは情熱。
 私は単に嫌いなものに対しては情熱などカケラ
 もない。とにかく触れなければよい、そこから何か
 を受け取る機会がなければ快適、それだけ。

 「アンチ」な芸能人は特にいないんだけど「嫌い」
 「苦手」な芸能人は結構な数いるので、そうすると、
 その人が関わる作品を避けざるを得なくなって、
 結果、自分がつまらない思いをする。なので嫌い
 なものや苦手なものをなるべく少なくしたいと思う
 のだけど、どうしたらいいんでしょうね。

 以前、某嫌いな俳優が出ているドラマをでも面白
 そうだから、どうしても見たくて見た、ことがある。
 やはり作品は面白かった。でも嫌いな俳優のこと
 はやはり嫌いで、好きになることはなかった。

 理由がない、ということは、何か根源的なことに関
 わることとか、憶えてないけど何らかのトラウマが
 よみがえるような外見とか(小さい頃嫌なこと言わ
 れりされたりした相手の顔を無意識下で覚えてて
 それと似てるとか)、もしかしたらそういうことなの
 かもしれないし。とか変にこじつけたくなってしまう
 のは「理由もなく嫌う」という感情が自分の中にある
 のがどうにも理不尽で腹立たしいというか、不愉快
 だからなのだと思う。理想を言うなら、存在する全て
 のものを、好きだと思い心地よくすごしたい。そういう
 世界に住みたいと思う。
| ひとりごと | 10:58 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
夢の話
JUGEMテーマ:つぶやき。

 こんな夢を見た。

 あまりにもずうずうしく身の程知らずで恥ずか
 しいので閉じておきます。
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| ひとりごと | 07:25 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
今はもういないあなたへ

 あの頃はお互い忙しくて、二人きりで会えるのは
 だいたい深夜で、カラオケボックスによく行った。
 私は聴いているばかりで。
 聴いているのが好きだった。

 太くて深くて低くかすれ気味の、大きな弦楽器が
 奏でるみたいな声で、柴田淳の「美しい人」をよく
 歌ってくれた。 

 「偽る笑みの君を逃がしたんだ」
 というフレーズのところでいつも涙が零れた。

 美しい人だった。
 あの頃の私には、多分、世界で一番に。
 手も足も出なかった。
 やわらかそうだった髪にも触れられなかった。
 
 映画の趣味も音楽の趣味も話も全然合わなくて、
 口論になればいつも一方的に責められた。
 
 それでもずっと一緒にいたいと思っていた。
 だけど季節が一巡する前に会わなくなった。
 あっけなく終わりが来た。

 まさか歌の歌詞の通りに、「行方もわからない」
 人になるなんて。

 http://youtu.be/1zYhjwRT84Q
| ひとりごと | 13:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
違和感を我慢できない
JUGEMテーマ:つぶやき。

 子どもの頃、身近な人のちょっとした外見の
 変化が怖くて気持ち悪くてすごく苦手でした。

 例えばいつも眼鏡をかけてる父親の眼鏡の
 ない顔とか。
 幼稚園の先生がマスクしてたりとか。
 そのマスクとったら鼻の下に大きなおできを
 こさえてたりとか(ショックさらに倍)。
 
 一番強烈に残ってるのは母が髪を切ったこと。
 あれはいくつくらいの時だったんだろう。私が
 幼稚園か、小学校に上がったばかりの頃か、
 それくらい。肩より長く伸ばしていつも束ねてた
 黒髪を首のあたりで切って、あろうことかパーマ
 を、いわゆるオバサンパーマをかけやがったん
 です。いまだに心の傷(笑)。大人になった今の
 私が傷ついてるとかではさすがにないけど私の
 中に「お母さん、これじゃない、この姿じゃない…」
 と困惑し悲しんでいる自分が居座ってべそをかき
 続けている、ということなのですが。

 眼鏡なしのお父さんとか、マスク顔の幼稚園の
 先生とか、鼻の下に何かついている同じく幼稚
 園の先生とか、おばさんパーマのお母さんとか、
 もやは「ほぼ別人」でしかない。

 それってすごい怖いことだし、単純に嫌、不快で
 たまらないんです。泣きたいほど、いつものに
 戻してほしい、前のに戻してほしい、って願って
 しまうんです。

 そして自分は基本的にそういうとこ、子どもの頃
 から変わってないです。PCのブラウザの仕様が
 バージョンアップという名のもとに細かく変化して
 たりするのさえ嫌だ。閲覧してたサイトのフォント
 がゴシック体から明朝体に変わって見えるとか、
 ラインの位置が違うとかわりとどうでもいい部分
 にイライラしてしまうのです。

 「いつも同じ」だったものが「ちょっと違う」という
 違和感に慣れない、耐えられない方です。
 実家の味噌汁がいつものいりこだしじゃなくたま
 たま鰹だしだったりするとテンション下がるしね。
 別によそんちの味噌汁が、お店とかインスタント
 とかが何でだし取ってようがいいんだけども実家
 の味噌汁はいつも煮干しだから煮干しじゃないと
 違和感。その違和感が苦手なんです。

 そんなわけでテレビで見てる芸能人の外見が急激
 に変わったりするのも嫌なんです。激太りとか激痩
 せとか。瞼をちょこっといじったくらいならいいけど、
 明らかに顔違うレベルにお直しされちゃったとかも。

 なので好きな芸能人の外見が変わったらもう
 ファンではいられないんです。これは仕方の
 ないことなんです。違和感に耐えられないから。
 身内だったら、日常のことだったら、もう耐える
 というか乗り越えるしかないんだけど、なんで
 非日常の娯楽でそれを耐えなきゃいけないんだ
 って話です。加齢とともにゆるやかに、っていう
 のなら大丈夫ですが、短期間に激変されたら、
 とてもついていけない。
  
 例えばうちの、V6の、トニセン子ちゃんたち
 なんかはさあ、…と例にしようかと思ったけど、
 あの三人は、逆に違和感を感じるくらい老け方
 が綺麗すぎるので、たとえとして適当ではない
 ことに気付いた。別にあそこまでハイレベルな
 ものを要求してるわけではないです。あんな人
 たちはなかなかいないんです。

 コバルト文庫で若●未生という人が書いた「ハイ
 スクール・●ーラバスター」というシリーズものの
 ラノベがあったことを、まあご存じの方はご存じ
 でしょうし、知らない方は全然知らないでしょう。

 昔、私はあれが好きで。ハマてったってほどでも
 ないけど、新刊を楽しみに待ってる程には好き
 だったです。で、挿絵と表紙を某漫画家の方が
 描いてて、人気があったのでCDが出たりとかの
 メディアミックスもされてそういう商品のジャケット
 デザインとかもみんなその漫画家の先生が担当
 されてたし、また後に、漫画化されたりとかもして、
 すっかりその作品のキャラは、自分の頭の中で
 描く三次元の像ではなく、その漫画家が描いた絵
 で固定されてました。小説を読んでても、その絵の
 キャラが脳内で動くかんじ。

 ところがです、その挿絵と表紙の担当が急に
 途中から変わったんですよね。こう言っては
 なんだけど、前担当者の方より著名なほぼ
 誰もが名前聞いてわかる漫画家に。それだけ
 でもかなりショックです。その上、その漫画家
 の提案なんだか、作家と相談して決めたんだ
 か知らないけど、今まで前任者が作り上げて
 きたキャラクターデザインを全員、一新したん
 です!全員!外!見!別!人!ですよ?!
 髪型から何から。

 私の一番お気に入りキャラなんか短髪で前髪
 長めの釣り眉たれ目のイケメン、だったのを、
 ロン毛のピアス男にされました。誰それって
 かんじ。私の希沙良はこんなじゃないわああ。

 これを読み続けられるか否かって話なんです
 けど、私は否でした。むしろ読み続けられる人
 の気持ちがわからない。表紙や挿絵を見ない
 ようにすればいいってご意見もありましょうが、
 あいにくそんな都合よく、情報をシャットアウト
 できる目を持っていません。

 話がだいぶ飛んだように思われるかもしれない
 ですけど、これが本題です。小説があって挿絵
 があり、挿絵は二次的なものです。本体は、核
 になるものは、エッセンスは、スピリットは完全に
 絵ではなく、文章の方にあります。だから小説の
 作者が変わっていない以上、挿絵が交代した
 だけで、その小説は、物語は、キャラクターは、
 「変わってない」ということになるのでしょう。

 でも、それは私には通用しません。だって違和感
 があるから。違和感は今と今までを決して「=」で
 結んでくれません。別物は別物。そして挿絵も、
 作品として同時に、一緒に送り出された時点で、
 その作品の、小説の、一部なのです。

 これと同じことが「外見が変わった芸能人」にも
 言えます。確かに中身は変わってなくても外見
 もその一部です。私は挿絵が変わった小説は
 もう読めないし、絵柄が極端に変わった漫画も
 読めないし、外見が変わった芸能人を同じよう
 に好きでいることはできません。違和感がそれ
 を邪魔します。違和感に押しつぶされそうになり
 ます。私は違和感を我慢できません。
| ひとりごと | 09:35 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |

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